搾取する側とされる側、そして別の世界

多くの人は社会に出るときに労働者として社会に出ていく。

ほとんどの人にはそれ以外の選択肢は選べる状態ではなく、その中でも厳しい環境の人は借金を背負って出ていくのである。

そんななかで社会に出たときに多くの人が自分の始まる位置が垂直方向のどこにあるかを気にするものだ。

勝ち組か負け組か

給料の善し悪し等

その差が大きく、如実に見えるため、わたしにはこの社会は階級社会のように見えるのだ。

この階級社会に組み込まれると、仕事や社会のなかで階級の上下を巡って戦いが始まるのである。

階級社会に順応しようと努力をしても多くの場合自分ではない他人の能力不足や感情的な判断などによって容赦なく階級を落とされる、決定される。

階級社会に取り込まれたものは皆が皆、搾取する側にまわるために搾取するものとされるものを選別しにかかる。

仕事の生産性と言いながら、自分のための資料作りを部下に強要する上司などはこの階級社会に取り込まれた権化のようなものだろう。

今日、社会にはこの搾取する側にまわりたい平民がたくさんいる。始まりでは差はないはずの自由主義社会で階級を強制的につくり、多くの人に逆転出来ないような構造を押しつける。

この構造は社会の構成で大きな力を持つ団体が顕著でその内部はまさに腐敗と政治、権力争いの世界になるのである。

何故人を搾取したいのかは分からないが、多くの人は人に命令して、自分は責任を取らずに、人よりお金を手にして、好きに生きたいと願うのである。

この社会は果たして良い社会なのか。それは分からないが

明治維新を行って身分制をなくしても人間のやることは進歩していないのだと悲しくはなる。

そんな搾取する側にまわるための選別を受けるような仕事を続けて数年がたったとき、別の世界があることに気付くのである。

そう別の世界も確かに存在すると。

自分は何も偉くもなく、立派でもない人がただ組織の力と搾取の力を借りて、虎のように見せてる風景の隙間から人が人らしく生きる姿や行動を見ることが出来たのである。

その美しさを見たときにわたしが出したものは

辞表という名の片道切符だった。

辞表を出すことは決してこの搾取に対する嫌悪だけではなかったがそれでも多くの割合を占めていたのは事実だ。そこから数年は搾取と戦い、別の世界へいく術を探して歩き始めた。

ようやく自分らしく仕事をしても搾取しない世界に近づくことが出来たのは35歳という年齢に近づいたときだ。

資本主義である以上搾取を無くすのは不可能であるのは理解している。ただ搾取と呼ばれるほどの行動を避けることは出来るだろう。

格差や不平等とは違って搾取は意識してやるものだ。

現在の社会は階級の逆転が起きにくいことが大いなる問題ではないかと思っている。

それは貧困層に生まれると、平均的な家庭を築ける人の割合が極端に少ないということを指している。そうなると表面的な自由という言葉になんの意味があるのかという心理的な嫌悪感を多くの人が抱くのではないか。

そんな気がするのである。

世界に文句を言うつもりはないのだが、

ひとつ疑問があるのは

定められた運命によって階級が逆転しない社会と

定められた運命はないと言いながら、搾取によって勝ち取った傲慢さで人の運命を勝手に決める社会とどっちが苦しいのだろうか。

どちらが諦めがつくのだろうか。

わたしは嘘と詭弁にまみれた世界に対してかなりの嫌悪感がある。

わたしが男性で生まれた変えられない事実によって、重いものを持ち、長時間働き、職場で責任ある仕事を押し付けられるより、

搾取する側に勝手に決められた上司に権力の濫用や長時間労働の強要、人格攻撃などをされて健康を害する方が遥かに嫌悪感がある。

薬屋に生まれて薬屋しか続けられない運命と

薬屋を搾取する側にやれと強制されて、薬屋しか出来ない運命とどちらが残酷かという話である。

もしどちらも階級が変更出来ないなら後者はより酷いと思う。

今の世界はこんな例示のように極端ではないだろうが、階級移動と自由の達成が困難と言える人が多いのだろう。

そんな人の負の感情に溢れる搾取する側、される側の世界から外へ抜けて別の世界にいきたいと願い、少しづつ実現へ向けて努力しはじめたのである。

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