勉強とはなにか。
どうやらあまり我が国の人は社会人になって
から勉強しないらしい。何をもって勉強というのかを考えて見たいと思う。
そもそも勉強とは、勉めることを強いると書くので
自分がやりたいとか楽しいとか自己満足の世界のことはおそらく当てはまらないのではないかと思う。
学生時代多くの人が嫌な思いをしたであろう受験勉強などはその典型で、そもそも強い負荷をかけて行う学習活動のことを指して勉強と呼んでいるのである。
人間は自然と安定を望む生き物なので何も意識せず生きているとすぐに安全地帯に自分を置くようになる。
毎日同じ事を繰り返す。
外食はいつも同じ献立を食べる。
同じ人とだけ会うなど様々だ。
こういった安全地帯にいるとき人は安心して過ごすことが出来るがその代償に成長の機会を奪われることになる。
勉強という行為はこの安全地帯から自分を連れ出して、新しい世界や成長への一歩を強烈に踏み出すこうなのだと認識するといいと思う。
もし勉強をして成果がでない人がいるならば、それはそもそも勉強なのかまず疑い、自己満足との境をしっかりつけることが肝要かとおもう。
真の意味で勉強の成果が出る人は、勉強と呼ぶにふさわしい負荷をかけているものだ。
今いる自分の安全の世界から少し抜け出し、未知の世界へ足を進める不安や緊張は勉強にはつきものである。
受験のとき凄まじい緊張に襲われる多くの人は
まさに純真無垢に勉強に向き合った成果だと思う。
たとえその瞬間に見える結果が伴わなくても、その自分の殻を破るように挑んだ勉強には価値があるのでどうか結果如何に関わらず自分に誇りを持って欲しい。
あまりに過酷でつらい時は安全地帯から離れすぎている証拠である。
そのときは躊躇わずに自分にとって安全な場所に帰ると良い。
挑戦いつでも再開できるのだから。
勉強を本当に過去、現在に行った人には、結果が伴わなくても、勉強という挑戦をした人を見極めることが出来る。
もし勉強の崇高さを欠片も理解出来ないような人にその挑戦を馬鹿にされたり、否定されても相手にしなくてよい。
その人はその年齢になっても能力が全く成長していない未熟者なのである。
もしそれが親であれば残念ながら既に其方はその瞬間に親を越えたのだと思ってそっと距離を置くと良い。
勉強とはなにか、学び成長することはなにかということが理解出来たならきっと真の理解者に恵まれて、人生のなかで力を発揮するときがきっと来ると思う。
少なくも筆者は勉強につとめてのちに、
数年経ってから力を発揮する場面が来たことが何度かある。
勉強の成果とは必要なときになってはじめてわかるものなのだ。
勉強とは苦難に満ちた人生を切り開く、人の大切な武器だと思うとつらい時もきっと乗り越えられるだろう。
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